こんにちは!学ぼう会のおかもとです。
新学期・新生活が始まりました!! 「リニューアル」というのは私たちにとても都合のよいイベントだと思いませんか?
気持ちの区切りができて、どこかスッキリしてワクワクも感じます。
今のところ週1更新が続けられている自分に「いいね!」をして、連載vol.6をお届けします。初めてこの記事を目にされた方は以下のもくじから順を追ってお読みください。
~もくじ~
前回、私が育った環境について少しお話をしました。
振り返ると、私は自分の希望や主張を親にスムーズに同意してもらった経験がありません。いつも非難や反対をされてきたので、思春期あたりからは自分の話を全くしない子どもになっていました。
年月を経た今、子どもを産んで私自身が母親になった時、目指そうとする親の像が全く見えずに困惑したことが、当会である『お母さん』を学ぼう会の活動を始めたきっかけです。
私は子育てについて学び、自分自身を育てなおす必要があると思ったからです。
そして、ここで長い年月を重ねたおかげで、いまは母の気持ちがよく理解できるようになりました。
母の思考・行動はすべて『不安』から起因したものでした。子どもにとっては自分の意見に「賛同・賛成してもらえない」という残念なことが多かったのですが、母は母なりに、私の身に起きる(かもしれない不穏な出来事)への不安があり、それをできるだけ回避させたかったのでしょう。
また、私がどんどん社会に出ていくことで、自分が一生懸命に築いた「家」から出て行ってしまう不安もあったように感じます。
成長し自分に追いつき、追い越される不安もあったようです。常にダメ出しをして、「あなたはまだ全然できていない」と認めなかったのは、私が広い世界に飛び出すことで、自分からどんどん遠のいてしまうことへの不安があったのでしょう。
今の私がこの状況について考えると、とても滑稽に思えます。
子どもが何をしてもどこへ行っても、たとえば日本の反対側の国で生活することになっても、親と子の関係はけっして揺らぐことはないのですから。
そして、子どもの望むこと、自分の力でやっていこうというものなら、私は心から応援したいですし、不安があるとすれば身の安全くらいのもので、それは100%拭うことはできない仕方ないことです。腹を括る以外に方法はありません。
そう考えると、母がずっと抱えていた不安は、実は私の安全のために向けられたものではなく、母自身が生まれ育った環境で根づいてしまった見捨てられ不安だったように思います。母の母自身の安全のため…つまり、私はまったく関係なかったのです。
このことは私に大きな気づきを与えてくれました。
そのひとつは、対人関係における『人の思考・行動の多くは不安から身を守ることが原点になっている』ということです。
これが解ると、親子だけでなくさまざまな対人関係において、何かしらの問題や悩みがある場合、自分の中に在る『不安』を探ると解決の糸口が見えてくるということになります。
相手に問題があるのではなく、自分の中に在る『不安』が大きく影響を与えているのです。
ここで少し、また私の話をします。
我が子を産んだ時、私は子どもの口の中に入るもの、つまり食事にとても気を使いました。離乳食からすべて手作り、食材は有機・無農薬のもの、服は肌触りの良いコットン製、化学繊維などもってのほか。洗濯洗剤や柔軟剤にも気を使い、日常生活に敏感になっていました。
今思えば、私の意識は子どもの健康について考えているというよりも、「我が子が汚染される不安」によるものでした。市販品は何が入っているか分からない、無垢な我が子を汚されたくない…そんな不安でいっぱいだったのです。そして、その不安は私自身が汚されたくない不安でした。当時、私の中に在った、夫への不信感、社会に対する不信感、周囲に対する嫌悪感、「イヤだ!」という思いに汚されたくなかったのです。
不安が募れば募るほど、『不安』を満たすための不安要素がどんどん増えていきます。我が子は生後2週間目から病院通いをすることになり、あれこれと健康トラブルを起こし、私自身もアレルギーを発症することになりました。
『不安』を満たしたくて、不安は不安を招き入れるのです。
子育てをしていると、子どもに対していろいろな『不安』を抱くことがあるでしょう。人間の想像力は豊かです。不安要素を想像すればするほど、いろいろなかたちで不安を満たす出来事に遭うようになります。
厄介なのは自分の心の奥、潜在意識の中に閉じ込めた不安は自覚することができないという点です。自分の内面を探り気づくところまでのものは、まだ顕在意識の中に在るものです。根っこはまだまだ奥…にあります。
そして、奥にあればあるほど影響力は強く大きく、手を替え品を替え当人を振り回します。
見えない…分からない…それでも奥を探り続ける…これが生きることでもあるのでしょう。
『善く生きる』という意味は、見えないゴール、解けない問いに向き合い続けることなのかもしれません。
その過程でであう気づきや出来事を楽しむことができるから、私たちはこの世に生まれ、親子の縁をいただいたのでしょう。
そう考えると、結局、「ありがたき幸せ」に着地しました。
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