こんにちは。学ぼう会のおかもとです。
昨日、ふと空を見たら夏の雲が浮かんでいました。
「いいかげん羽根布団しまおうよ~」と娘が言っていたのですが、つい先日まで寒くて震えていましたよね…。気候だけでなくいろいろな物事のシフト、チェンジが唐突な気がしています。
慌てずに、落ち着いて…。
vol.8を更新します。
※初めてこの記事を目にされた方は以下のもくじから順を追ってお読みください。
~もくじ~
私はある日のある瞬間まで、自分が生まれ育った家庭は健全で何の問題もないと思っていました。
綺麗好きでいつも完璧に家事をこなし、家族に対してあれこれと世話を焼くことを生きがいにしている母。働き者で家では愚痴ひとつこぼさず、生まれてから一度も怒られた記憶がない穏やかで優しい父。妹である私にあれこれ注文をつけることがないマイペースな姉。
一億総中流…と言われていた時代に、私は極めて“ごく普通”のどこにでもある家庭に生まれ、なんなら他のご家庭よりも仲良しで、そんな自分は幸せだと思っていました。
だれもが自分が生ま育った家庭以外の世界を知りません。友達の話を聞いても、自分の環境に紐づいた想像しかできません。
新しい世界を知るには独立して新しい家族を築いた時しかないのです。生まれ育った環境が全く異なる他人と一つの家庭を築こうとしたときに、本当の意味での違和感を味わいます。そういう意味で、新しい世界を見せてくれるパートナーの存在は有り難い存在ですし、自分を育ててくれる大事な役目を持つ人なのでしょう。
さて、本題に入っていく前に、少し私が生まれ育った家庭についてお話ししたいと思います。私の大きな変化や気づきをお話するために欠かせないと思うからです。
母の口癖は『家族だけ』。
本音を言えるのは、遠慮せずにいられるのは、信用できるのは…『家族だけ』。
母はそう言いながら家族に対しては無遠慮でダメ出しばかりして王様のようにふるまいますが、一歩外へ出て他人と関わると、別人に見えるほど謙虚になります。例えば、保護者同士(いわゆる今でいうママ友)やご近所さんの前ではいかにウチの家族はダメなのかということばかり強調して話します。
幼いころからその姿を見ていた私は、大人になるということは二面性を持つこと…なのだと思っていました。そして、自分がどれだけ不出来な子なのだろうということも感じていました。
いま振り返れば、私はまんざらでもなかったと思うのですが…。スポーツ大会の代表に選ばれても、大会で県大に出場しても、書道や美術作品で賞を取っても、、100点を取っても…、担任の先生が褒めてくれても、、「よくやっているね」というような言葉を一度も聞いたことがありません。どこまでできれば母が認めるのだろう…そんなことをずっと考えていたように思います。
ある時、母に「私はそんなにダメなの?」と聞いたことがありました。
「褒めたらイイ気になって努力を忘れるでしょ?」
そう答えると、定番の“麦踏み”の話をしはじめました。麦は種をまいて新芽を出すと、何度も踏みつけることで丈夫になる…という話です。
「それにしても、他の人に私のことをそんなに悪く言うことはないでしょ?」
母にこうも言ったことがあります。
返ってきた言葉は、
「自分の子の自慢をする親ほどみっともないことはない」
(じゃ、家の中で褒めることがあってもいいのではないか?)と思いましたが、母は本心で私のことを認めたことがなかったのではないかと思います。
自分を過小評価をすれば失望することはないし、他者から妬まれることがない…そんなことを母から学びました。努力の源は「(自分はダメだから)もっと頑張らなくちゃ」という自身へ向けた独り言です。これはつい最近まで、私が自己認識に対するパラダイムシフトを起こすまで続いていました。
今は個性や特性があることが当たり前になり、誰にでも何らかの凸凹があることが知られていますが、子どもの頃、私が苦手だった水泳とマット運動…は「できないということは努力が足りないこと」だと思い込んでいて、自分の努力不足に自己嫌悪し、その授業の前はとても憂鬱だったことを覚えています。
一方で、姉は凸凹が激しいタイプの子どもでした。
親が教えずに3歳で漢字を読むような非凡さを見せましたが、成長するにつれて日常生活やコミュニケーションの面で心配な面が見えてきて、母の関心はほぼ姉に向けられていきました。
先にお話ししたような信念の持ち主です。「目立たないように、普通に…」と、母の過保護過干渉は姉の成長に伴ってエスカレートしていきました。姉本人がすべきことをまずは母がチェックして手を出すのです。私は「何故、本人にやらせないんだろう…」と思いつつ、姉が見せる諸問題は母に任せて自分でやらない姉の努力不足だと思っていました。
母がいつも姉に小言を言うので、私は「どうすれば母を怒らせることがないのか」が分かっていました。要領の良さはこの時に身につけたのだと思います。
母がどんどん姉に関心を向けていく一方で、親に心配させないことを第一にふるまっていた私は母との距離を広げていきました。
信じ切っていた母の価値観に大きな違和感を自覚したのは高校生の時です。
「あ…この人、、、私と全然違う…」
高校2年生のある日、私に向けた母の言葉に突然、こう思った瞬間の体の感覚は今でも忘れません。
これが遅い思春期?反抗期?だったのでしょう。
以降、私は自分のことを一切、母には話さなくなりました。他愛もないどうでもいい話題を出して、自分に関することはすべてシャットダウンしました。無意識に自分を守ろうとしていたようです。
以降、母とは何度も口論し、そのたびに口達者の母に責め立てられ、制裁のような対応をされた私は何度も悔し涙を流しました。それでも、なんとなく「どこの家でもこんなもの…」と思っていたのは、
『家族だけ』
と言う母の言葉から「家族は無遠慮に傷つけても成り立つ関係」と信じていたからです。
話を先に進めます。
時を経て、ココサポ・プログラムの前身となる講座に初めて参加した時のワークショップで
「子どもの頃に感じたイヤな経験」
を取り扱うことになりました。
私は、小学校4年生の時、家庭科で習ったデザートが美味しくて、家族に食べさせたくて家で作った日のことを思い出しました。
牛乳と抹茶を使ったゼリーだったと思います。
「美味しいね」と喜んでくれる姿を頭に浮かべながら、私は上機嫌で台所に立ちました。
ゼリーなので冷蔵庫で冷やす時間もかかります。
私の期待はその時間に比例するように大きくなっていました。
「さあ、食べよう」
その瞬間の映像は目を閉じると今でも思い出せます。
あれは今の実家に引っ越す前に住んでいた家のダイニングでした。
ゼリーとスプーンをテーブルの上に出して、期待に胸を膨らませながら母の顔を見ました。
すると第一声は、
「うわっ、マズい!こんなマズいもの、食べられたものじゃない」
…
ショックと悲しみで混乱した私は部屋に戻って泣きました。
(そんなにマズかった?)
(いくら本当にマズくても、あんな言い方することないよな…)
期待が大きかったぶん、私が受けたショックと悲しみは私自身をまるごとダメだしされた失望感に重なりました。母への怒りが出てきましたが、その上に「私がまずいものを作ったからだ」という自責が覆いかぶさって、いつもどおり「私がダメなんだ…」という思いに着地しました。
大人に成り、子どもを持ち、すっかり忘れていた記憶…。
たまたまワークショップでお題が出て、すーっと胸に手を当てた時、いきなり出てきた苦い思い出…。
すでに親になった私は、
「私が作ったゼリーがまずくても、あの態度は無いよな」
と素直に思いました。
もし、我が子が私の立場で母の立場が私だったら…。
本当に美味しくなかったとしても…
「私は、あんなふうに言わない」
そうハッキリ思い、急に母への怒りが沸いてきたのです。
ゼリーの逸話がきっかけとなって、詰めに詰め込んだ悲しみを入れて置いた箱のふたが小さく開き、悲しみが怒りにシフトして一気にあふれ出たのです。
その時まで健全な家庭に育った…母との関係もなんとなくうまくいっている…と信じていた私はひどく混乱し、その後しばらく自分の心の整理ができない状況が続きます。
でも、今振り返ると、あの日あの瞬間から私は自分の人生を生き始めることができました。生まれ育った家庭、親とは完全に分離した「わたし」が誕生した瞬間です。
私は(年齢的には)大人になって、自分の家庭と子どもを持って、ようやく自分で自分を育て直しを始めることができたのです。
年月はかかったけれど…。
40代に入ったばかりの私が、自分を育て直すために、いまいちど子どもの私に時を戻しました。
私の場合は、子どもの頃から培った生き癖、信念・価値観、自分の弱点・・・どちらかといえばネガティブな面ばかりが露わになります。それは、私の根っこにあった「自分を認められない」ダメ出し癖が大きいと思います。(この部分は一人ひとり違います)
そして、私がずっと『健全』だと思い込んでいた環境のいびつな姿がどんどん見えてきました。
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